沖縄県の体操会を引っ張ってきた。
いいときも悪いときも。それをこの目で見て、心で感じているからこそ今がある。
撮影協力:与那原町観光交流施設アリーナ

体操競技が不毛と言われた沖縄。昭和40年4月、私自身が新任教師となった興南高校で、部が正式に創部しました。
当時、県内の体操の伝統校は首里高校で「打倒首里高校」として男子8人、女子7人の部員でスタート。
「1年以内に男女とも県内優勝をする。その目的達成のためにあん馬を一台購入してほしい。もし達成できなければもう一度東京で勉強をやり直す。ということを、新任教師の若さゆえ、口にしていた私は、学校の理解もあり、あん馬ができる環境を整えたのを今でも思い出します。」

生徒たちの頑張りもあり、昭和62年海邦国体の年には、興南高校の卒業生である知念孝選手はすでに日本強化選手に。海外の大会にも多数出場していました。
平成4年にはバルセロナ・オリンピック日本代表として、知念孝選手・松永政行選手が出場し、団体銅メダル、種目別平行棒では松永選手が銅メダルを獲得する快挙でした。
平成の時代に入り、興南高校での選手強化は順調に進んでいたものの、沖縄県内の体操人口が減少し、平成24年3月の卒業生で興南高校体操部の選手も0人となりました。
大変残念だったのですが、数年の猶予期間を経て、休部から廃部となりました。
体操人口の減少。これは私にとっても非常に寂しいことですが、これまでに、国体選手、オリンピック選手を育てたことで、私自身が教える時代は終わったと感じています。
今は私の教え子だちが、選手を育てる時期。教え子たちは各地で体操教室を開き、そこでまた、若い選手が育っています。
私は直接生徒たちを指導することは、現在ではほとんどなく、教え子たち若い世代がこれからの未来をつくってくれると信じています。私がいつまでも現場に立つと、本来なら育つ指導者や選手が育たないという状況はつくりたくないのです。

今度は私の教え子たちが、団体選手、オリンピック選手を育てる時代です。
体操の魅力は一言では言い表せないのですが、自分の体を操る楽しさ、そして体操は全てのスポーツの原点であると思います。柔軟性は、生まれつきの部分もありますが、大半がトレーニングやストレッチでの努力の部分が大きいのです。
平成の次にくる「令和」の時代には、ぜひ沖縄の体操人口の増加、そしてオリンピック選手が出てくることを願うとともに、明るい未来に期待が膨らむばかり。私自身が情念をかけてきた体操人口が少しずつでも、多くなっていくことを信じて。

