沖縄の経済を牽引してきた「かりゆしホテルグループ」。その創業者である平良スミ子さんは、旦那さんや子供たちとともに裸一貫から現在の地位を築き上げてきました。そんな平良さんにお話を伺いました。

PROFILE
生年月日 昭和5年2月28日(89歳)
出 身 地 美里村(現うるま市)
楚南ナガンザチ与古田
趣 味 琉歌
座右の銘 乗り出した船は、岸まで着ける
米軍でのハウスメイド、電話交換手ののち自宅で縫製業、その後那覇へ移住し、1962年に夫の平良盛三郎とともに「観光ホテル沖ノ島」を開業。「ホテルなは」「ホテルニュー那覇」を経て1987年に「かりゆしビーチリゾート恩納」をオープン。以後、続々とかりゆしホテルがオープンし、沖縄県内に7つのホテルを操業。75歳でホテル役員を引退し、現在は趣味の琉歌や沖縄県更生保護施設元理事、沖縄県ユネスコ協会理事など
貧しかった子供時代の暮らし
子供の頃は旧美里村「楚南」の「ナガンザチ与古田」という9世帯しかない小さな集落で暮らしていました。家の周辺には親戚も暮らし、皆で農業を営んでいました。私は勉強や運動が好きでしたが、父の死をきっかけに米軍で働き、18歳で嫁ぐことになりました。それが夫の平良盛三郎で、具志川の赤道に住むことになりました。今では笑い話ですが、まだ子供だったので、男性というのが怖くて、嫁いだその日に家を抜け出して実家に戻ったりしました。 その後、長女恵子、次女礼子、長男朝秀、次男朝敬が生まれましたが、生活は苦しく、夫は基地内で、私は家でできる作業ということで、縫製の仕事をしました。子供たちの面倒を私の妹や親戚に手伝ってもらいながら、徐々に暮らし向きが良くなり、目標の1万ドルまで蓄えることができました。
かりゆしグループの原点「観光ホテル沖ノ島」開業
資金ができたことで私たち家族は那覇へ移住することにしました。収入を上げることもありましたが、子供たちの教育のためでもありました。私たち夫婦は貧しくて勉強したくても進学できなかったので、せめて子供たちには高い教育を受けさせたいと思い、子供がやりたいという勉強は全てさせることにしました。その代わり「乗り出した船は、岸までつけなさいよ」と言い聞かせました。それは、自分にも言い聞かせている言葉でした。
私たちは那覇の波の上に土地を購入し、7部屋の「観光ホテル沖ノ島」をオープンさせました。まったくの素人でホテル経営を始めましたが、でもそれは苦労の連続だったのです。
「乗り出した船は、岸までつける」努力を怠らないこと
「観光ホテル沖乃島」創業当初は、初めてのホテル業で右も左もわからない中、沖縄と本土の風習の違いもあり、ハプニングの連続でした。
ある朝食の際、お客様から「ノリはないか」と聞かれ、ノリといえば「糊」しか知らず、洗濯したシャツの糊付けでもするのかと思って、小麦粉を洗面器に溶いて出しました。お客様が「これが食べられますか?」とあきれ返ったり、今では笑い話になるエピソードもあります。
ホテル業の拡大と共に多忙を極め、朝は4時に起床して市場で食材を仕入れ、食事の準備からホテルの業務、そして翌日の準備まで。早朝から深夜まで無我夢中で仕事に追われる日々が20余年続きました。あの頃の苦労を振り返ると今でも涙が出てきます。当時は忙しさのあまり、子ども達の面倒を見る事ができず、長女が弟妹の朝ごはんを作ったり、着替えさせたり、面倒を見てくれました。親の働く姿を見て、子ども達も育っていきました。
子ども達にも支えられ、次男の朝敬が継いだ「かりゆしホテルグループ」は、現在7つのホテル約1500部屋になりました。事業は人がする、人も事業も信用と信頼を築き、努力を怠らない事、前に進む事が大切で、それが世間様に認められる、成功への近道だと思います。
