
生まれ故郷である玉城が大好きで、私の原点は昔も今も変わらず、玉城にあると思います。
海にも近い、山にも近いという素晴らしい立地の玉城で育ち、家族に囲まれて過ごしました。隣近所は数件しかない地域に住んでいたのでサトウキビの時期になると、お互いの家のサトウキビの刈り入れを手伝ったり、と地域とのつながりも非常に強い環境で育ちました。
学生時代はバスケットに明け暮れ、チャレンジ精神もあまりなく、積極的なほうではありませんでした。そんな私も高校を卒業し、大学を受験したのですが不合格。
そんな時、東洋石油精製に勤めていた高校の先輩から「この会社を受けてみないか」というお声かけがあり、無事に合格、入社しました。
人と会うことでさまざまなチャンスがやってくると思う
入社して6年は3交代勤務で現場で働いていました。それから部署移動で3年ほど、昼勤や夜勤で品質係をしていた時に、「販売をやってみないか」と上司から提案があり、移籍という形で日本石油株式会社で働くことになりました。
当時は、製油所から販売に出た経歴の第一号として周囲からも注目されていました。
さらに上司からの勧めで沖縄支店から福岡支店へ移動になり、130人ほどの社員の中でウチナーンチュは私1人でしたが、自分に与えられた仕事をコツコツとこなしていきました。その後、沖縄支店に異動となり、りゅうせきの販売店担当となりました。
そんな中、担当先のりゅうせきの役員からのお声かけで、りゅうせきへ入社することになりました。先輩や上司、りゅうせきの役員との「ご縁」に感謝しています。

3交代勤務や昼勤、
夜勤で仕事に打ち込む
入社して6年は3交代勤務で現場で働いていました。それから部署移動で3年ほど、昼勤や夜勤で品質係をしていた時に、「販売をやってみないか」と上司から提案があり、移籍という形で日本石油株式会社で働くことになりました。当時は、製油所から販売に出た経歴の第一号として周囲からも注目されていました。
さらに上司からの勧めで沖縄支店から福岡支店へ移動になり、130人ほどの社員の中でウチナーンチュは私1人でしたが、自分に与えられた仕事をコツコツとこなしていきました。その後、沖縄支店に異動となり、りゅうせきの販売店担当となりました。
そんな中、担当先のりゅうせきの役員からのお声かけで、りゅうせきへ入社することになりました。先輩や上司、りゅうせきの役員との「ご縁」に感謝しています。
社員と経営者の垣根をなくすことを意識して接する
りゅうせきでは、これまでの経験を活かしながら販売一部次長を経て、常務取締役、取締役副社長、代表取締役社長から会長兼社長、そして会長へ、と会社の「経営」の部分の経験をさせてもらっています。
経営で一番大切なのは「まずは会社をつぶさないこと」、それが大きな役割でもあると考えています。
会社には社員だけじゃなくその家族や取引先なども含めると1万人以上の人が関わっている。それを不幸にするわけにはいかない。
社員はもちろん、お客様、株主、協力会社、地域の人すべての人を大切にしていくことを経営者としては常に意識しています。その反面、社員と経営者の垣根をなくし、会社の中での風通しがよくなるように努めています。
創業者の居宅だった1000坪の土地を未来へつなぐ
那覇市安里にある創業者の居宅だった1000坪の土地を活用し、りゅうせきグループ初の老人ホーム「百穂苑(ももほえん)」が2019年4月にオープンします。
これまでも譲って欲しいという声は多くあったものの、思い入れのある土地を何に活用するかというのは非常に大切な部分だと思っていたため、地域、社員、未来のために活用したいという想いがありました。
自分の家のように暮らし、家族が気軽に尋ねてきたり、地域の人がいつでも利用できる施設を目指し、未来へつなぎ、幸せを提供できるような施設を目指して、皆様の力もお借りしながら、今後も求められていくであろう分野へのチャレンジを続けていきたいと思います

プロフィール:金城克也(きんじょう・かつや)
昭和31年2月3日生まれ。62歳。沖縄県玉城村出身。昭和50年東洋石油精製株式会社入社。昭和59年日本石油株式会社へ移籍。平成7年株式会社りゅうせきに入社。沖縄県経営者協会会長等多くの役職に就く。
