様々な沖縄の姿を目の当たりにし、自らの苦しい時代も乗り越え今の豊かな沖縄の一部を築き上げてきた変わらず持ち続ける信念と、先を見据える眼差しを"人生の先輩”として迎え、その生い立ちと共にインタビュー。

April 25, 2019

沖縄県体操協会 

会長 知念義雄

沖縄県の体操会を引っ張ってきた。

いいときも悪いときも。それをこの目で見て、心で感じているからこそ今がある。

撮影協力:与那原町観光交流施設アリーナ

沖縄県の体操人口を増やしていくために

 体操競技が不毛と言われた沖縄。昭和40年4月、私自身が新任教師となった興南高校で、部が正式に創部しました。

 当時、県内の体操の伝統校は首里高校で「打倒首里高校」として男子8人、女子7人の部員でスタート。

「1年以内に男女とも県内優勝をする。その目的達成のためにあん馬を一台購入してほしい。もし達成できなければもう一度東京で勉強をやり直す。ということを、新任教師の若さゆえ、口にしていた私は、学校の理解もあり、あん馬ができる環境を整えたのを今でも思い出します。

 生徒たちの頑張りもあり、昭和62年海邦国体の年には、興南高校の卒業生である知念孝選手はすでに日...

December 27, 2018

社会福祉法人彩生会理事長(株式会社りゅうせき会長)金城克也さん

人と会うことでさまざまなチャンスがやってくると思う

 生まれ故郷である玉城が大好きで、私の原点は昔も今も変わらず、玉城にあると思います。
 海にも近い、山にも近いという素晴らしい立地の玉城で育ち、家族に囲まれて過ごしました。隣近所は数件しかない地域に住んでいたのでサトウキビの時期になると、お互いの家のサトウキビの刈り入れを手伝ったり、と地域とのつながりも非常に強い環境で育ちました。
 学生時代はバスケットに明け暮れ、チャレンジ精神もあまりなく、積極的なほうではありませんでした。そんな私も高校を卒業し、大学を受験したのですが不合格。
 そんな時、東洋石油精製に勤めていた高校の先輩から「この会社を受けてみないか」というお声かけがあり、無事に合格、入社しました。


人と会うことでさまざまなチャンスがやっ...

October 5, 2018

7部屋の沖之島観光ホテルからかりゆしホテルグループへ

沖縄の経済を牽引してきた「かりゆしホテルグループ」。その創業者である平良スミ子さん。
前回は夫婦で力を合わせて資金を貯め、那覇へ移り住み「観光ホテル沖之島」を創業する所までお聞きしました。夫である平良盛三郎氏の先見の明のもと、沖縄を代表するホテルグループへの足跡をお伺いします。

<前編はコチラ>

「乗り出した船は、岸までつける」努力を怠らないこと

 「観光ホテル沖乃島」創業当初は、初めてのホテル業で右も左もわからない中、沖縄と本土の風習の違いもあり、ハプニングの連続でした。

 ある朝食の際、お客様から「ノリはないか」と聞かれ、ノリといえば「糊」しか知らず、洗濯したシャツの糊付けでもするのかと思って、小麦粉を洗面器に溶いて出しました。お客様が「これが食べられますか?」とあきれ返ったり、今では笑い話になるエピソード...

October 5, 2018

 沖縄の経済を牽引してきた「かりゆしホテルグループ」。その創業者である平良スミ子さんは、旦那さんや子供たちとともに裸一貫から現在の地位を築き上げてきました。そんな平良さんにお話を伺いました。

貧しかった子供時代の暮らし


子供の頃は旧美里村「楚南」の「ナガンザチ与古田」という9世帯しかない小さな集落で暮らしていました。家の周辺には親戚も暮らし、皆で農業を営んでいました。私は勉強や運動が好きでしたが、父の死をきっかけに米軍で働き、18歳で嫁ぐことになりました。それが夫の平良盛三郎で、具志川の赤道に住むことになりました。今では笑い話ですが、まだ子供だったので、男性というのが怖くて、嫁いだその日に家を抜け出して実家に戻ったりしました。 その後、長女恵子、次女礼子、長男朝秀、次男朝敬が生まれましたが、生活は苦しく、夫は基地内で、私は家でできる作業ということで、縫製の...

July 31, 2018

沖縄の「染織り」をテーマに服地開発から製品になるまで、すべての工程を一貫して行う世界的にも珍しいファッションブランド「㈱マドンナ」。その代表取締役でデザイナーの山内光子さん。これまでに海外で24回のファッションショーを開催、年齢を重ねても、なお活躍し続けるその「輝き」の秘密を追いました。

デザイナーという仕事を知るきっかけ

戦後、小学校3年生の頃でしょうか。近くの家に井戸があり、水汲みに行く時いつもミシン仕事をしている方がいて、それを見るのがとても好きでした。その方は鹿児島から赴任してきた先生で、「そんなにミシンが好きならデザイナーになるといい」と言われたことが大きな衝撃でした。「手に職をつけたい」と思ったのはその頃だったと思います。私にはバンドマンのおじさんがいて、アメリカの古着を使って、ボーカルのドレスを作って欲しいと言われたのが最初の仕事です。

技術の習...

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